平成2年

シャープの営業マンだった大倉正人と尚美結婚。

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太平洋戦争

当好調に商売は進んでいたがやがて、太平洋戦争勃発。仙一郎も戦争に召集された。家族5人を残し、長男に家を託し徴用された。一方、福一丸も船員と、息子2人を徴用され大砲を漁船に乗せ徴用されてしまいました。そして、昭和20年2月第五福一丸は市右衛門の息子2人と、船員と共に玉砕。市右衛門の悲しみは計り知れないものだったそうです。

戦後

時代の移り変わりとともに、電池、電球、ラジオまたその修理等の仕事が増え工場のようだった会社がだんだん商品をそろえるようになり、店としての形が整ってゆく。店員も何人か雇い、大正町では電気製品を売り中港の出張所では船の無線、電気工事を手掛けるようになりました。

昭和39年~40年

ちよ54歳で病死。ちよの死後、仙一郎は店をたたむ事を決意。 ちよの葬儀でちよの娘登江に一目ぼれしてしまった矢野嘉宏が結婚。 電気店を引き継ぐことを決意。中港の福一丸 本社ビルの一角を間借りして“ナンバン電気”を再興。

昭和60年

大手電気店との価格競争、サービス向上のため、ホーエー家電へ加盟。(父から相談を受け、16歳だった現専務・大倉尚美が、“そこに入れるんだったら私がこの店次ぐよ”と言ったことから、父が猛烈なパワーでFCに加入。)

昭和41年~45年

娘尚美が生まれる。 昭和通りの店(元店舗跡)にナンバン電器をオープン。

昭和62年

現在の店舗の場所に移転。

明治40年代

当時10代の若者、近藤市右衛門にさかのぼります。信仰篤い市右衛門は焼津市浜当目の虚空蔵尊“福偉智虚空蔵菩薩”より“福偉智”を頂いて“福一丸”と命名し、焼津最初の発電機付きの漁船を建造し以来、積極的な経営が今も脈々と続いております。 その市右衛門の長女ちよが福一丸無線長だった水野仙一郎を婿に迎えて、今もある北浜通の一角の“なんばん小路”にある市右衛門の建てた家の離れで共に暮らしていました。

昭和10年

どうしても電気に関わる商売をやりたかった仙一郎が、船を下り大正町(昭和通り)で船の配電盤を作ったり、蓄電池を作ったりする新興電業株式会社を起こしました。これが今、ここにあるお店の始まりです。

平成17年

本部がヤマダ電機と提携。