小学時代
【小学時代】
反抗期
ビンタ
正座
頻繁に書いた反省文
小さいころは明るくよく喋る、人を笑わせることが大好きな子供でした。
しかし、成績が優秀な兄とよく比べられていたため親に反発することが多く反抗期が長かったため、親には本当に迷惑をかけました。
そのたびに先生から呼び出し、校長室前で正座、親や先生から何度ぶたれたかわかりません。そのたびに沢山書いてきた反省文の経験は現在文章を作ることに生かされています。
そのころから仲間と集まり目的を決めて、計画を実行することへの面白さを感じていました。「自分はまだまだこんなもんじゃないぞ」という強い気持ちを持っていたのは確かでした。
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私の名前には『幸せが太く続きますように』 という母の想いが込められています。 この名前を授けてくれ ここまで丈夫に育ててくれた 母に心から感謝しています。 今まで沢山の苦労をかけた母には いつまでも元気でいて欲しいと 心から願っております。 【幼少時代】 泣き虫 甘えん坊 身体が弱く病院通いの日々 小さいころはよく病院に通う身体の弱い子供でした。油断するとすぐに風邪を引き、皮膚はアレルギーでガサガサ、極度の便秘症で数日便が出ない、おまけに落ち着きがなくしょっちゅうケガをするため病院によくお世話になりました。その後は水泳や剣道を通じて心身共に強くなりフルマラソンを完走するほどになりました。 今では病院にお世話になることなく、患者さんから「氷河期が来ても生きてそうだね」と言われています。 身体のプロとしてベストな状態で日々の治療活動をするため、身体構造の理解を深めるためにトレーニングや食事法、生活の仕方など日々自分の身体で実験研究しています。
【整骨院 院長1】 地域ダントツ№1整骨院 を目指して奮闘 2年後に院長となり、6年間『チーム仲良し』と『業界トップ2割』の高い基準をかかげて地域ダントツナンバーワン整骨院を目指し、朝から夜まで走り続けました。思うようにいかないことも沢山ありましたが、振り返るとこの8年間、失敗を繰り返しながらも未熟な私についてきてくれたスタッフに心から感謝しています。 日々忙しくも楽しく仕事をする中、大人になることができず10代で亡くなる子が多いことを知ります。病気によってその子たちは望んでいる未来へ向かうことはできません。その子たちが生きたかった未来を自分は何不自由なく生きているのにこのままでいいのか考えるようになります。 【整骨院 院長2】 セミナーに参加し、 全国の先生に宣戦布告 その頃から治療家として、また人としてのさらなる成長を求め、ご縁あって東京のセミナーへ積極的に参加するようになります。 初めてセミナーに参加した時、未熟な自分と比べてあまりにもレベルの高い全国の先生方を目の当たりにします。セミナー後は逃げるように会場を後にして新宿NSビルを見上げ「今に見てろよ、秋田には青山幸太という治療家がいるんだからな」と一人静かに全国の先生方に宣戦布告をしたのは今でもはっきりと覚えています。 それからは秋田と東京を行き来する日々が始まります。秋田市から夜行バスで東京まで9時間30分かかります。月数回、土曜日の診療終了後に夜行バスに乗り、日曜日の朝に新宿へ着いてセミナーを受けます。そして夜に東京から夜行バスに乗り、月曜日の朝秋田に着いたらそのまま整骨院で診療をする生活を10年以上続けています。 このゼロ泊高速バス弾丸東京セミナー生活のおかげで「秋田から夜行バスで9時間半かけて来る変なヤツがいるぞ」と名前を覚えていただけました。今でも年に数回は原点回帰のために夜行バスに乗っています。 治療院経営の指導をしていただき、治療家としていつも高い基準と厳しくも愛のある言葉をくださる 「バランス整骨院」総院長 花谷博幸先生 当院の治療技術である関節矯正術や身体の診立てを指導してくださる 「さとう整骨院」院長 佐藤実先生 「菅谷バランス治療院」院長 菅谷成彦先生 テーピングやトレーニングなどアスリート対応を教えていただき、テーピングセミナーの講師の道へ導いてくださった 「まと治療院」院長 尾崎誠先生 公私ともにお世話になっております。
【治療院 開院】 秋田県№1治療院を目指し、 命を燃やす 2017年3月に整骨院を卒業し、同年4月27日自身の誕生日に沢山の方の応援や支援のおかげで「青山バランスアップ治療院」を秋田市手形に開院することができました。 秋田県ナンバーワン治療院を目指し毎日沢山の患者さんに来院していただき、忙しい日々を送っています。 来院していただいた皆様に『今日は来て良かった』と喜んでいただけるよう、一人一人心を込めて施術しています。 【現 在】 生涯現役 業界活性化 挑戦と成長の日々は続く 現在は治療活動だけでなく生涯現役、業界活性化を人生の目的として治療技術の研究だけでなく、食事法や健康法の学習、セミナー活動や開業した後輩達の支援を積極的に行っています。 周りからは「ゆっくりしたら?」とよく言われますが自身の信念である「ゆっくりするのは死んでからでいい」という言葉通り、限られた資産である命を最期の最後まで燃やし尽くす覚悟を持って治療家として精進し、身体のプロフェッショナルとして日々診療していきます。 最後に、仕事のサポートをしてくれるスタッフ、大好きな仕事をとことんやらせてくれ、いつも私を応援してくれる妻と子供たちに心から感謝しています。私を応援してくれるすべての方々へ圧倒的な熱量を持って生き抜く姿勢を感じていただけたら幸いです。 長い長いストーリーを最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。 ぜひ今度はあなたのストーリーを聞かせてくださいね。 あなたとのご縁ある出会いに感謝しております。 青山バランスアップ治療院 院長青山幸太
【中学時代】 厳しい稽古から得た 「信じること」の大切さ 中学生になってからも反抗期は続き、自らの弱さと寂しさから心はさらに荒れていました。学校では問題行動も多く夜遅くまで遊び、塾をサボり、家に帰らないこともありました。 そんな私が大きく変わったきっかけは、中学生の頃の恩師との出会いにあります。剣道部の監督は私と本気で向き合い本気で叱ってくれました。その厳しい稽古の日々から仲間を信じることの大切さを学びました。幾度となくチームのメンバーには迷惑をかけましたが、最高の仲間達と戦うことができました。 最後の試合で負けた時は人目もはばからずに涙したのは今でも忘れません。その思いを胸に仲間達とリベンジマッチを誓います。 【高校時代】 アキレス腱断裂を乗り越え 全てを出し切る さらなる飛躍を誓い推薦入試で県立角館高等学校に入学し、剣道部に入りましたが高校二年生の春、練習中に「左アキレス腱断裂」という全治6か月の大ケガをしてしまいした。 お世話になった先輩と試合に出ることができず松葉杖をつきながら先輩の最後の試合を見届けた時、自分の何もできない無力さから本気で退部を考えるようになりました。 「剣道を続けるのもここまでかな…」もうやめようかと思い詰めていた時、支えてくれたのがチームのメンバーとマネージャーでした。それからは弱音を吐かず、リハビリも乗り越えケガをしてから6か月後、完全復帰しました。最後の試合では何度も延長となる大接戦で、結果は負けましたが自分の剣道人生9年間の全てを出し切った試合となりました。
【専門時代1】 秋田県一の治療家を目指し極貧生活を始める 進路は自身の大ケガとお世話になった治療院の先生の影響もあって、鍼灸師になることを決意しました。この職業に人生をかけると決め「秋田県で一番の治療家になる」が口癖でした。 盛岡の専門学生時代は生活費や学費を工面するために、6畳一間のアパートに親友と二人暮らしを始めます。専門学校まで往復20キロを自転車で通い、スイミングインストラクターや整骨院のバイトを掛け持ちしてほぼ休みなく深夜まで働き、ちくわともやしで過ごす超極貧生活をしていました。 ちなみに、この時のスイミングインストラクターのバイト先の上司が、現在の奥さんになるとは思ってもいませんでした。 【専門時代2】 仕事、技術、人間性を 師匠から貪欲に吸収 時間があれば岩手県や宮城県の鍼灸の治療研究会に行き、技術だけでなく東洋医学にのめり込みました。 師匠とは専門学生時代に知人の紹介というご縁もあり公私ともに指導していただき、仕事へ向かう姿勢を叩き込んでいただきました。仕事に熱く、カッコいい師匠はとにかくイタズラ好きでした。 専門学校を無事卒業後国家試験も無事一発合格、治療家として走り出しました。 【盛岡で修行】 圧倒的な熱量と 譲れない思いを持って働く 就職先はバイト先の上司から紹介してもらったご縁もあり、とにかく仕事に励みました。ある日いつもと同じように仕事をしていると職場でお世話になっていた先輩から言われました。 「圧倒的な熱量と、譲れない思いを持って仕事に向かう人に人は動かされる」 その言葉に奮起し、それからは誰よりも早く出勤して隅から隅まで掃除をし、深夜までホテルで出張をして職場の誰よりも一番長く働きました。院長とは圧倒的な熱量と譲れない思い、その思いは今になっても変わりません。 【地元で修行】 安定=ぬるま湯状態の人生 から新たな挑戦 その後、ご縁あって地元角館の整骨院で修業をさせていただきながら、介護施設の手伝いなど治療家以外の仕事も経験できたことはとてもいい経験になりました。 その頃、地元の友人に誘われて始めたストリートダンスにのめり込み、真夜中まで時間を忘れて没頭しました。ダンスで培った身体の使い方は現在も身体操作やバランス感覚にとても役立っております。 仕事も安定し、結婚もして子供も生まれ、地元の仲間達にかこまれて過ごすのはとても心地良いものでしたが、どこか不完全燃焼な自分に自問自答する日々が続いていました。 「自分の人生はこのままで良いのか?」 「まだまだやれることがあるだろ?」 そんな時にちょうど前の職場の社長に勧められて、秋田市で整骨院の立ち上げに誘われました。地元での安定した生活を捨て、秋田市で挑戦するのは勇気がいりましたが自身の成長だと秋田市へ行くことを決意しました。