1881年

ロベルト・コッホ(ドイツの医師、細菌学者)が寒天培地による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えました。寒天は第二次大戦前は日本の重要な輸出品でしたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合いから輸出が禁止されました。寒天の供給を絶たれた諸外国は自力で寒天の製造を試み、自然に頼らない工業的な寒天製造法を開発しました。こうして作られたのが粉末寒天です。

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名前が決まったてないことを聞いた隠元禅師は、「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、寒天と命名しました。

1844年

寒天製造は隣接する丹波国(現在の京都府・兵庫県)にも伝わり、丹波国へ行商に来ていた信濃国諏訪郡穴山村(現在の長野県茅野市玉川)の行商人・小林粂左衛門が、諏訪地方の農家の副業として寒天製造を広められ「角寒天」がつくられるようになりました。

1798年

摂津国島上郡原村字城山(現在の大阪府高槻市原)の宮田半兵衛が製法を改良して寒天製造を広めます。寒暖差の大きい島上郡・島下郡・能勢郡の18ヶ村による北摂三郡寒天株仲間が結成され、農閑期の余業として寒天製造が行わました。

1685年

山城国(現在の京都府南部)において、旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門が、日の経た乾物を発見しました。その乾物は、ある日戸外に捨てたトコロテンが、夜間に凍結、日中に溶解を繰り返したものでした。 これでつくったトコロテンを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると強く勧められました。