小学生のころ

日立市にできた天気相談所初代所長を務めていた父・秀男は、作家・新田次郎氏の小説「ある町の高い煙突」の題材にもなった公害問題の解決に全力を尽くしていました。 小学校の教員をしていた母・政子は結婚を機に専業主婦となったのち、再び教職に戻ります。 私は両親の背中から、人のために尽くす姿勢を学んだのです。

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大学生のころ

大学を志望するにあたり、新しい時代の建設には、法律への深い洞察と知識が必要だということに気づき、東京大学法学部に入学。 社会の不正をただそうと思い、弁護士を目指して司法試験の勉強を始めました。 26歳で合格。大阪で2年間の司法修習を経て、弁護士への一歩を踏み出します。

衆議院議員として

東京10区(足立・葛飾・江戸川)から立候補することになり、ミニ集会などこまめに住民の皆様との交流を深めていきました。 定数5をめぐって8人が争う激戦でしたが、支持者の皆様の懸命な応援のおかげで、第3位で当選することができました。37歳の時でした。

参議院議員に

2006年、旧成田空港公団や防衛施設庁等、官製談合事件が相次いで勃発。 党のワーキングチーム顧問として、談合に関与した公務員や特定法人職員などに対する罰則規定を盛り込んだ「改正官製談合防止法」の成立をリードしました。

地雷除去支援へ

1991年7月、カンボジアを訪問した際、地雷で手足を失った子どもたちと出会い、胸がしめつけられる思いに駆られました。 現地の話を聞くにつけ、「本当に困っている人たちを支える日本の国際貢献でなければならない」と強く実感しました。 その時から政府、民間、ボランティア団体も含めた支援活動を開始したのです。

公明党代表として

2009年9月、公明党の代表に就任。党の再建へ、率先して現場を走り、第一線の声を伺おうと、全国47都道府県を回りました。

弁護士へ

東京にある「北・木村法律税務事務所」でキャリアはスタートします。 最初のころは、おびただしい数の依頼事件を手がけました。4年目のころ、パートナーへと昇格。さらに3年後には、日本弁護士連合会に出向しました。 その中で感じたことは、庶民の生活実態に見合う法律を政治家が作るべきであり、さらに、一般の人々に行政が率先して「法律教育」を行うべきだということでした。

中学生のころ

ブラスバンド部に情熱を傾けた中学3年間でした。 数ある楽器の中でトロンボーンを選んだのは、広い音域から出る和音の美しいハーモニーとトランペットに勝るとも劣らない強音に魅せられたからです。 今でも、あの小さなマウス・ピースは、自宅で大切に保管しています。

生まれ

1952年(昭和27年)7月12日 66歳(かに座・辰年) 茨城県ひたちなか市生まれ 幼少期から高校卒業まで茨城県日立市で過ごす

高校生のころ

「真心を一筋に貫き通す」というこの言葉は、進学した水戸一高の校訓でした。 良くも悪くも謹厳でイデオロギッシュな土地柄の水戸で、強い精神性を学び、100年以上も続いてきた「至誠一貫」の伝統と精神を、生涯の座右の銘にしています。